2012年6月25日月曜日

人間の”終末”と「人間の尊厳」について


今回は問題的には“大き過ぎる”とも思ったが、私はこう思って、こう行動した。ということをお伝えしたいと思って書く事にした。
私はある時、ひとつの報道番組を見て、ある行動を起こした。
それは、自分が病気や事故などで「自らの意思」を示せなくなった時に「自分の意思」を伝えるものの携行である
と言っても便箋一枚であるが(財布の中に入れてある(^^♪)
それには、「万一、自分の意志が示せない状況になった時には、こう処置して欲しい」ということを書いたものである。
具体的に言えば、病気や事故などでいわゆる「植物状態」になった時には、延命処置を施さず“自然死”させて欲しいということである。
私は60歳まではこれでもかというくらいに無茶”をやってきたという自覚?がある。
たくさんの人にも迷惑をおかけし、助けていただいたと思っている。
私は幸いに60歳から「公的年金」を貰える世代であった。

まだまだ働きたいとも思ったが、社会の実情と自分の才能(特にこれが原因(^^)ははなかなかそれを許してくれなかった。
一時、「目標」を失いかけた時期もあったが、「今の自分にできることはないのか?」と考えた時、社会に貢献できることは健康で丈夫な心身を持って「社会に少しでもご迷惑をおかけしない」ということであった。
それから私はこれまで生活習慣を180度転換し、丈夫な体をつくること、健康を維持できる食事、脳力の活性化などに取り組んできた。
そのお陰もあり、今では年齢より確実にひとまわり以上若い心身を持てていると自負しているし、私の年齢を知らない人からは確実にそれだけ若い年齢を言ってもらえる。(モチロン、おベンチャラもある(^^♪)
だからこそ、「自分の終末は自分の意志で迎えたい」と強く思った次第である。
しかし、今の私は複数のtwitterアカウントを持って毎日tweetし、ブログも複数毎日書いている(日曜日はゴメン(^^♪)。
今の私は逆に、これまでの人生で最も充実している実感を持っている。
しかし、だからこそ「自分の最後は決めておきたい」とも思ったのである。
私にそんなことを言う資格も権利もないことを充分承知の上で言わせてもらえば、ここまで医・科学が発達した時代だからこそ「自らの死期を決めておく」ことも社会貢献の一助ではないだろうかと考えた次第です。
私は、自らつくり、自分で食べ、自分で排泄できることが「自立生活」であり、それが不可能になった時が「自分の死期」だと覚悟して生きているつもりです。
だから、今は“120歳”まで自立できる自分を目標に、日々の生活を過ごしています(^^♪



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